昭和45年11月03日 夜の御理解
一日が今月今日での頼みから始まって、今月今日もおかげを頂きまして、有難う御座いますと。ただそれだけの事ですけれども、それが願われそれが御礼に続いておる一日であると言う事は、これも大変な事だと思いますね。朝に今月今日もどうぞとこう願わせて貰うて、その今月今日が今月今日もおかげを頂きまして、おかげを蒙りましたと。もう今月今日が立ち行けば良いのであるからね。
もう明日の事じゃない。もう今月今日が立ち行けば良いのである。だから今月今日を願わせて貰うて。そして今月今日がおかげを頂きましてと、御礼が申し上げれる一日。それが繰り返されていくと言う所にですね。信心は油断がならんと言う事になるわけです。本当に今月今日を願っていく。今月今日を願う。今月今日もおかげを頂きましてとお礼の申し上げれると言う事は、こんな素晴らしい。
こんな有難い事は無い。そういう日々ですからそういう日々が、こう続いていくと言う事。もう明日の事ではない。今日一日が立ち行けば良いのである。例えば夜の御祈念が終わってまたほんなら休ませて頂く時に、休ませて頂いておる間も、どうぞ神様のお恵み御恩恵の中に、熟睡のおかげを頂かせて貰うて、朝目覚ましのおかげを頂いたら、もう今月今日。今月今日もどうぞとこう願わしてもらう。私はその事をね。お礼を申させて頂きましたら黄ない、あの花の咲くカンナと言う花がありましょう。
カンナと言う花には色々ありますよね。カーキ色のもあります赤のもあります。私が今日頂くのはまっ黄なのカンナの花。だからこれなんです黄なと言う色は、何時も今中教祖様はそれを今中と仰るですね。これはもう教祖様のご信心の、大変な素晴らしい事はそこです。いつもが今中だ。これで良いと言う事ではない。何時も今中。どんなにおかげを受けても、どんなにおかげを受けても、まぁだ半分しか頂いてないと言う事。
どんなであってもまぁだ今中だから、一つも悲観もまぁだこれで済んだと言う事ではないのだから、悲観も何にも要らない。今中なのだ教祖は今中と言う言葉で教えておられます。私共もそのいわゆる今中なのである。ですから黄ない色がいわば急進なのだ。これに熱情が懸けられる所に、いわば安心だとかね。紫と言うかそういうおかげになっていく。何時もが何時もがきなである。
カンナと言うのは修行と言う事。これはもう何と言うですか。もう何日から何日までこんな修行すると言った様な難しい事ではなくてね。もう何時もが何時もが身にカンナをかけておるような思いと言う事なのである。カンナのお知らせは修行と言う事ですけれどもね。黄なのはそう言う事。何時もがこう修行させて頂いておるという信心。いつも修行と言う事を考えておるという信心。いつも自分の心を見つめておるという信心。何時ももう何か機会があったら改まらせて貰おう。
改まらにゃ本気で磨こうと思うておる心なんです。ね。それがいわば何時も、身にカンナをかけようとしておる姿勢である。しかもそれは何時も今中。今月今日で目が覚め今月今日で頼ませて貰うて。一日を終わらせて貰うて、今月今日も立ち入ったと言う事が御礼の焦点。だからもうこの様に素晴らしい事はない事。しかもそれが明日へ又持ち続けられれば良いのである所にね、何時もきなのカンナの花の様な信心が求められると言う事になってくる訳ですね。こらもう油断もすきも出来んと言った様なね。
そういうものじゃ一つもない。今月今日の立ち行きを願わして貰うて、今月今日もおかげを頂いてと御礼を申し上げて行けれる日々が、繰り返されていくという信心。もう私は金光様のご信心の有難い所は、そこだとこう思うですね。本当に日々信心の稽古をさせて頂きながら、いわゆる今月今日を頼んでいく。今月今日を願うて行く。そこから今月今日もおかげを頂いてという必ずそういうおかげに成って来る。
今月今日が疎かになる所に私はまぁ、いやな問題にいわば成って来る様な感じがするですね。今月今日を願い続ける所に、今月今日もおかげを頂いてとお礼の申し上げれる一日。そういう一日それはきなの花のカンナの花の様な信心が、何時も自分の心にかけられておると言う事ですね。そういうおかげを頂いて、本当に心行くまで、今月今日もおかげを頂きまして、立ち行きましたと言うお礼のね信心を一つ、させて頂かにゃいけんと思いますね。
どうぞ。